うひゃ。
前回書いたものを読み返すと、気恥ずかしいな。
要は、好きなんですね。漂流譚が。
ぼくは内陸の生まれであり、あまつさえ泳ぎが不得意であることもあって、海が非常に怖い。海だけではなく、いろんなことが怖い。つまり関西でいうところの「こわがり」である。
高校生のころ、友人と日帰りで山へ行き、なんの拍子か、帰れなくなって山中で野営したことがある。当然当時のことであるから携帯電話なんてしゃれたものはない。無断外泊山中版ということになってしまった。
友人ちは、ひじょうにラジカルというか「開かれた親子関係」であって、つねづね尊敬もし、またうらやましくも思っていたのだが、その深夜、友人の母親からウチに電話があったそうだ。
「あとで笑い話になってもいいから、警察に連絡した方がいいんじゃないでしょうか」
おどろいたことに(ずっと後年になってから知ったことだが)、うちのお袋は、ふだんのキャラとは一変し、少し様子を見よう、と提案したらしい。
「あの子はとてもこわがりなので、あぶないことはできないと思います。いまもどっかですくんで隠れているのでしょう」
正解! さすが母親ってとこかな。
その筋金入りのこわがりのぼくでも、中でも海がいちばん怖い。夜更けに浜辺にいるだけでも、なんだか底知れぬ恐怖を感じる。浜辺にいてもそうなんだから、大海の中にひとりほうりだされたら、どのような気持ちになるのか。考えるだに恐ろしい。
小さな船でも、陸地と直角に沖合に進めばほんの1時間ほどで全方位海しか見えないところまでいける。圧倒的な海の広さのなかで、自分の足が乗っている船はあまりにちいさいということが、カラダでわかってしまう。
もちろん、ほぼ泳げないぼくは、ここでむき身で投げ出されたら短時間の生存も覚束ない。たとえ泳げたとしても、あまり状況認識にかわりはないだろう。それに、この絶え間ないうねりの下にはどのような生物が隠れているか、それはしれたものではない。
数日、海岸でキャンプするだけでも唇は潮風で固くなる。そっとなめると、無数のひび割れと強い塩分が感じ取れる。
それが、何日、何週、何月も、結果のわからないまま、全周海のまっただなかを流れ行くのである。
しかも、漂流そのものにはドラマはない。毎日違ったことがあるわけではなくて、延々、何日間もまったく同じ日々が続くのだ。海しか見えない。新しい食べ物も、新しい水もない。当然のことながら、新しい人に会う訳でもない。ニュースがない日々を繰り返していき、積み上げていくのだ。
こわいでしょ。こわいです。
ぼくは、そののっぺりとした真っ青な日々を耐えることができないと思う。たぶん3日が限度だろう。現に(前回書いたように)多くの漂流者は、それくらいで命が絶えるという。そりゃそうだろう。
しかし、漂流譚が物語として成立するのは、まず最初にその無限の蒼い世界で生き延びるという前提がある。
怒濤の激情のあげくの死、あるいは生はわかるような気がする。アドレナリンの一気放出のかなたにある生死は想像ができる。しかし、コズミックタイムの中で漂流していく「ぼく」のきもちのありようは、まったく理解の外にある。
ぼくが漂流譚に惹かれるのは、単純にそういう事情であるのだろうなと思う。