我が家の夫婦間で長年にわたって意見の対立をみている問題がある。第一次南極越冬隊が昭和基地に置き去りにした15頭の犬についてどう考えるか、ということについてである。
1958(昭和33)年、日本の第一次南極越冬隊は南極を去るに際して15頭のカラフト犬をクサリにつないだまま置き去りにした。翌59(昭和34)年、第三次越冬隊が到着してみると、15頭のうち2頭(タロとジロ)が生存していた。これは後年映画にもなった(しかもこのたびディズニーがリメイクしたらしい。共に未見)こともあり、広く知られている事実である。
この「処置」に対して、ツマとぼくの意見がずっと対立してきた。ツマはその行為、許すまじ、との考えであって、ぼくはあれはあれでやむをえなかったんだ、という解釈である。近年、その論争に我が家のかかりつけの獣医である「晶子先生」(
好奇心on the web/猫譚/お菊参照)も参戦してきた。晶子先生もやはりツマ派である。せめて安楽死させるべきであった、というのが晶子先生の考えである。彼女は越冬隊に対して(それは同時に「日本のオトコたち」全体に対するものでもあるようなのだが)、たいそうお怒りなのである。
ぼくの結論が絶対に正しいものだと思っているわけではないが、獣医である晶子先生までが事実関係をご存知ないようなのは、驚いた。あらためて調べてみると、この「事件」を扱った本は(当時はたくさん出版されていたのであったが)ほとんど絶版になっている。ま、ぼくが何を書こうと蟷螂の斧なんだけど、何冊かの書物を通じて知り得た事実関係を書いておくことにする。
当初の計画では、第一次越冬隊は第二次観測隊(越冬隊を含む)と交代することになっていた。犬はそのまま第二次隊が使うため、居残りは当初の予定通りである(当時の用語としては「第一次観測隊(越冬隊)」ではなく「予備観測隊(越冬隊)」、第二次ではなく「本観測隊(越冬隊)」である。それ以降の南極観測が予定されていなかったからであるが、ここでは後の呼び方に従って第一次、第二次とする)。
この年は南極海の氷の状態が悪く、宗谷はなかなか接岸できず、苦闘の中でスクリューも破損し、氷の中に閉じ込められるという状態になった。アメリカの砕氷船に救助をあおぎ、その協力の下で交代のための努力を繰り返す。
宗谷側の戦略は、昭和基地に飛行機で二次隊の先発3名を送り込み、一次隊の全員を回収し、その後、二次隊の残りのメンバーを(状況によっては規模を縮小してでも)送り込むというものだった。撤収する一次隊は二次隊が到着した際に容易に犬の確保ができるようにと鎖でつないでおいた。
一次隊の撤収後、状況はますます悪くなり、いったん外海にでてから再突入を試みるということになった。この時点では、二次隊(この時点ですでに観測隊ではなく越冬隊だけだが)の投入はあきらめていない。しかし、万全を期すため、先に基地に派遣していた3名をいったん回収する。この結果的には最後の飛行になった便で、雌犬と子犬を予備ガソリンを機体から抜いて捨てるまでして連れ帰ってきている。
結局、再突入はできなかったわけだが、当時の記録を読むと、最後の最後まで努力していたことはあきらかである。もちろんその努力は「犬を救うため」ではなかったろう。一次隊を回収し、二次隊を送り込むために多大の費用と時間、そして努力を積み重ねてここまで来ているのである。宗谷側も観測隊側も、何が何でも二次隊を送り込みたかったろうし、二回目の越冬も成功させたかったに違いない。
注目したいのは、まさにこの時点、飛行機が一次隊を回収してから、再突入をあきらめるまでのリアルタイムに、宗谷に日本から匿名のものをふくむ多数の電報が寄せられていることだ。その多くは犬を放置したことへの非難であったという。
越冬隊長であった西堀栄三郎の「南極越冬記」(岩波新書 品切重版未定)に『日本から、犬についての電報がしきりにくる。脅迫あり、嘆願あり。』との記述がある。この本は1958年7月31日発行。つまりタロ、ジロの生存確認の前である。
南極観測は今からは考えられないほど、国民から熱い注目を集めた国家事業であったが、中でも犬に関する関心は非常に高かった。犬を残してきたことをふくめ、宗谷の動向は逐一大きく報道され、反応もいち早く宗谷側にも伝えられている。南極観測は巨額の国家予算がついた国家事業であると同時に、国民の募金にも支えられた事業だった。行動に際して世論を無視することは難しかったと想像できる。
これも「あれはやむをえなかった」と評価するための傍証にはなりうるかもしれない。なんとかなるならなんとかしたはずである。
彼らの意図としては、規模を縮小(最終的には8名になった)してでも第二次越冬隊を送り込みたいとずっと思っている。犬は越冬隊が使うということになっていた。最後の最後で計画が達成できなかったわけである。
ではなぜ「鎖につないだまま」であったか。これは当事者たちの書いた本や当時の新聞記事などを見ても、明確にその理由を述べたものは見当たらないが、想像することはできる。
第一次越冬隊は調査旅行の帰路で「比布のクマ」という犬を失っている。犬ぞりでの調査旅行の帰路、雪上車が迎えにきたので、疲労が激しかった犬たちをそりから放した。ほとんどの犬は雪上車の前になり後ろになり、一行と一緒に帰ってきたが、うち3頭が帰ってきていなかった。その中のゴロは翌朝自力で帰ってきた。3日目に捜索にでてアンコを発見する。しかし比布のクマは結局帰ってこなかった。基地近くまできて急に大陸の方角に去っていく足跡だけが発見できただけだった。
引き継ぎのためにはどうしても犬を繋いでおかねばならない。そう考えた背景にはこうした記憶もあったに違いない。当時の隊員たちの書いたものを読むと(あからさまにそうだと書いてあるわけではないが)、樺太犬は必ずしも「扱いやすい」犬ではなかったようだ。
昭和33年11月10日に発行された本がある。動物作家として著名な戸川幸夫の「隊長と犬係りと橇犬たち」という本だ。これも「南極越冬記」同様、タロ、ジロ再発見以前に書かれたものである。登場人物はすべて実名で記されている。後に当事者たちが著した本の中身と比べても、詳細な取材のもとで書かれたものと思われる。
この中に西堀隊長の心の中の声としてこのような一節がある。
「僕らは犬をつれて南極探検に来たわけではないんです。観測という名はついていても、これは探検と少しも変わりはない。一歩誤れば、人間ですら生命を失わなければならない。隊員たちは常に死と背中合わせをして暮してきたし、またこん後もそうしてゆくことでしょう。目的のためには愛情を犠牲にしなければならない時もある。この嵐では、あるいは第二次越冬隊は行けなくなるかも知れない。その為に犬が救出できなくて、死んだとしてもそれはやむをえないことではありませんか。偽善者と呼ばれ、鬼と呼ばれても構いません。私が連れて行った犬だ。可愛くない筈はない。だが、目的のために敢えて非情にふるまわなければならないのが隊長です」
意識的にはっきりこのように考えていたのであるかどうかは別として、このような考えも判断の中にはあっただろう。
それ以上に、関係者一同にとっては、日本からの犬を救えという声の大きさ、激しさに、驚きを感じたのではなかろうか。南極探検史のなかで、犬の受難はごく当たり前に存在する。それより半世紀まえの白瀬隊も樺太犬を南極に放置してきたし、アムンセンにいたっては、荷物が軽くなると犬を射殺し、その肉を他の犬の餌として与えたりもした。
50年たった今からみても、国内のこうした反応は不思議にすら感じる。文部省の南極統合本部にも犬に対する電話がひきもきらなかったというし、宗谷にはもちろん、隊員の留守宅にまで脅迫や嘆願の電話や手紙がよせられた。2月11日には衆議院の文教委員会で犬はどうするんだという質問まで出ている。稲田文部次官はその質問に対し「各方面から要望があるので何とか収容したいが、飛行機で収容するのは難しい仕事だ」と答弁している(朝日新聞S33.3.12)。
2月19日には南極統合本部は宗谷に「基地に残った樺太犬十五頭をヘリコプターで誘導して救う方法も考えてほしい」と打電している。翌20日の朝日新聞一面は「バ号犬九頭を救出」という大きな見出しを「ワシントン19日発 共同」として掲載している。バ号というのは宗谷を救出した米海軍のバートン・アイランド号のことだ。もちろんこれは誤報である。記事そのものはほんの数行だが、その中にも「雌犬九頭」とある。これはすでに救出が国内に報告されていたメス犬と子犬のことであるのだが、それを大慌てで記事にしてしまったところにも、国内での犬に対する関心の高さが垣間見える。この記事はその日の夕刊で訂正されている。
ぼく個人のことでいうと、ぼくはタロ、ジロと同い年である。したがって第一次越冬隊の出発も帰還も記憶にはない。しかし、うっすらと「タロ、ジロが生きていた」というニュースの記憶はある。高校2年の時に「南極越冬記」を読んだのだが、そのときはじめて「そうだったのか!」と驚いた鮮明な記憶がある。つまりそれ以前は「犬の放置はやむをえなかったのだ」とは思っていなかったということである。ひどいことしやがるなあ、とひそかに憤慨していたと思われる。少年期のどこかでその考えを植え付けられていたんでしょうね。おそらく晶子先生も同じではないかと思う(晶子先生はぼくより少しだけ年上)。
4歳の子どもまでが「悲劇」として心に刻み付けたってことはどういうことだったんだろう。
高校生のときの「転向」までは(うっすらとした記憶だが)「犬を放置したことに関して外国から強く批判された」というふうに思っていた。なぜそのように思っていたのかわからない。ただ、今でもそうだが当時はいっそう、自分たちの社会を批判的に考えるときに、なにかといったら「外国」をもちだしてくることがよくあったので、これもその伝かもしれない。かっこわるいことっす。この場合の「外国」は西洋ってことで、アジアやアフリカではない。
昭和33年の新聞の縮刷版を読めばはっきりわかるのだが、犬を放置したことに憤激したのは、「外国」ではない。日本国内からわき上がった声である。
ぼくらの社会と動物のかかわりを考えるとき、この樺太犬「騒動」はひとつの参考になるかもしれない。
多くの資料からしっかりと調査されたことと拝察します。とても厚みのある内容でした。西堀氏のリーダーシップ、多岐に渡る分野での活躍に興味をもち、このページに出会いました。とても幸運でした。この議論に深入りする気はありませんが、当時アメリカやソ連に「犬を助けてください」と頼んだら、一頭につき何ドル要求されるんでしょうね?[2006.09.24 #378]