猫と一緒に暮らしていると、どうしても彼らの精神性を高く見積もってしまいがちになる。
もう少し正確に言うなら、ホントはわかっているんじゃないか、という疑念をぬぐえなくなってくる。
この疑問の念は何も現代人に特有のものではないようで、このあたりの心の動きから発生したとしか思えない話が江戸後期に書かれた「耳袋」に掲載されている。
この本の著者根岸鎮衛は江戸町奉行までもを勤めた高級官僚で、先代までは武士ではなかったほどの身分から、能力の高さで役職をかけあがったテクノクラートでもある。
てな説明からは想像されないようなオバカな話もいっぱい収録されている随筆集が「耳袋」だ。たいへんおもしろく、風邪っぴきの夜などに取り出してきて再読することが多い。
その「巻之四」(岩波文庫版で第2巻収録)に「猫物を言ふ事」として、下のような記事がある。
寛政七年の春、牛込山伏町の何とか言へる寺院、秘蔵して猫を飼けるに、庭におりし鳩の心よく遊ぶを狙ひける様子ゆえ、(和尚が)声を掛け鳩を逐ひ逃しけるに、右猫「残念なり」と物言ひしを和尚大に驚き、右猫勝手の方に逃しを押へて小束(こづか。短剣ですね)持ち、「汝、畜類として物を言ふ事、奇怪至極なり。まったく化け候か。人をもたぶらかしならん。いったん人語をなす上は真直になおまた申すべし。もし否み候に於ては、我、殺生戒を破りて汝を殺さん」と憤りければ、かの猫申けるは、「猫の物を言ふ事、我等に限らず。拾年余も生き候へば、すべて物は申すものにて、それより拾四、五年も過ぎ候へば、神変を得候事なり。しかしながら右の年数、命をたもち候猫これなき」由を申しける故、「しからば汝物言ふもわかりぬれど、いまだ拾年の齢にあらず」とたずね問ひしに、「狐と交りて生れし猫は、その年功なくとも物言ふ事なり」とぞ答ける故、「然らば、今日物言ひしを外に聞ける者なし。我しばらく飼置たる上は何か苦しからん。是までどおりまかりあるべし」と和尚申ければ、和尚に対し三拝をなして出ゆきしが、其後はいづちへ行しか見へざりしと、かの最寄に住める人の語りはべる。
一部仮名遣いや漢字表記を変え、カッコ内を補記している。
これはもちろん事実譚ではないはずだ。でもこの話は猫、特に老猫と暮らす人にはストンと落ちるはずである。犬は人語を解するということは、その行動からあきらかだ。理解したことをちゃんと行動に移す。それだからこそ、その限界も露呈してしまっている。犬と暮らすと、これくらいは分かるだろう、しかし、こんなことは分からないだろう、という見極めがついてくる。もちろん個々の犬によって理解力は異なるのだが。だから、犬は多少のコトバのヒアリングはできるけど、かんばせーしょんはムリだということがはっきりわかっている。やつらは発語することはできない。
しかし、猫の場合、分かっているのかいないのかが、どうも判然としない。分かっているようで、分かっていないようで。かなり複雑なことを言っても分かっているとしか思えない行動をする反面、名前を呼んでも聞こえない(分かっていない)反応をすることもある。
そのことから、猫を飼う人は
「なにもかもわかっているんだけど、(その方が有利だから)しらんぷりしているだけ」
という「論理的帰結」にたどり着く。
彼らの知的能力に青天井の可能性を認めてしまうわけですね。
いちど小束を抜いてせまってみたい、と思ったりするわけだ。ホントのとこ、どうなんだろうね。